人に向かって「仮面をかぶっている」「演技をしている」と言うこと自体は珍しいことでも何でもありませんが、小グループで食事をしているときに、敢えてその言葉を口にしている人の心理状態がどういうものか、興味深くまた不思議に思ったので、少し考えてみたい。
もともと、人は子供に対しては母や父の顔になり、親に対して子供の顔になる。世間に出れば、対等の社会人としての顔をする。トランザクションアナリシス(TA)のセミナーを受けなくても誰でも知っていることで、それを以て多重人格とは言わない。善悪に関係なく人は多様な側面を持ち、どれかが本物で他は偽物ということはない。
人は、しかし、社会経験・人生経験を積み重ねることで、自分取るべき態度を意識して変えるようになるのも珍しいことでは。あの人の前では変な振る舞いはできないとか。人や場によって態度を変えるのも普通のことだ。とは言え、少し危険な匂いがする。心理学ではどういうのか知らないが、仮に人格の嵩上げとするなら、地と意識する自分と、仮面の自分のギャップが心理的な負担になるだろう。
ギャップを蓄積してやがて破綻する人もいれば、何らかの形で解消して破綻を免れる人もいる。自分を成長させる人もいれば、何かを諦める人もいるだろう。ギャップを抱えて、破綻させずに頑張り続ける人がいてもおかしくはない。
さて、
仮面をかぶっていると言わざるを得なかった側の心理はどういうものだろう。
今のあなたの姿は本物ではない。本物のあなたの姿は別にある。今の姿を否定したい。認めたくない。そういう心理だろうか。
本当の自分とか素の自分などは本人でも分からないから、本当のあなたは別にあると言われても、肯定も否定もできない。全部本物と思い込んでいる人なら、否定的な言葉に抵抗があるかも知れない。
問題は否定する側の心理。色々な想像が働くが、もしかするとその根底にあるのは場の空気に対する一種の疎外感かも知れない。心地よくない雰囲気を感じたのではないか。好きな話題、心地よい話題から離れていくのを止めるために、思わず言葉になったのかもしれない。それにしてもまだ違和感は残る。雑談の話題など行ったり来たり、暫くすれば自分がリードする話題になることもあるので、関心がなければ聞き役で十分。普通はそう考える。
性急に相手を否定する心理は何処からくるか。
何らかの不安ではないか。怒りかも知れない。自分自身の仮面を意識した嫌悪感だろうか。心理的な不安定なものが存在しているようにも感じる。それはもしかすると自己肯定願望。子供なら珍しくないが、大人でも、与えられた課題、抱えた問題、環境の変化など、何かをきっかけに自己肯定欲が強く出てくる。疎外感ゆえの自己肯定欲は普通のことだ。普通はそれが表に出ることは少ない。
人は、気の合う人と交わり、好きな読書や映画鑑賞でポジティブ経験を繰り返し、自らを見つめる日記を書いたりして、自分のメンタルの手当てをする。自己肯定もこれらの中で達成している。
セルフコントロールが上手くいかない。追い込まれたと感じている。余裕がないととっさの言葉が出てしまう。
自己肯定願望からなかなか抜け出せない人には、がんばれとか、しかりしろとか、否定的な言葉かけは厳禁。今のままを肯定し、感謝し、笑顔(ほほえみ)を向けることが肝要。
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人間界は難しい。相互作用があるから、相性の関係でミイラ取りがミイラになることもあります。少しずつ静かに一つ一つ。
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さてさて、
全く別の発想もできます。
パワーゲームの世界にいる人たち。究極はマインドコントロールを達成して支配者になりたいと思う人たち。議論をしても中身には興味が無くて、優位に立てるかどうかが関心事だから不毛に終わる。やり取りの空気を楽しんでいるだけの人もいる。
この手の人も相手の存在否定を始めることが多い。精神的不安定を誘発させてくる。人材開発、自己啓発などの研修でも利用される方法論だ。
パワーゲームを楽しむ(?)人、支配的ポジションい経とうとする人は、業務でもなければ、やはり自己肯定願望が強く作用していると思っていいだろう。幼少期の家族環境において満たされないと思ったものを、そのまま大人になって抱えたままだった。
心を満たすものを自分で発見できないと、無いものねだりの旅は終わらない。
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自己否定と他己否定:
他人を否定するのは自分の不安定の裏返し。自己肯定が得られないことに対する反発。自己肯定欲求の裏返しにあるものは自己否定の恐怖と不安だ。その先に待ち構えるのは不眠と暴力。強度な躁鬱の共存。
脳が暴走を始める前に、しなければいけないこと。
- 感謝
- 尊敬
- 笑顔
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